ときのそのとき -TOPIC of AGES- 明治大正風俗流行通信

風俗画報 ふうぞくがほう (1889/2月)

風俗画報

明治22年(1889)2月10日、日本初のグラフィック雑誌となる「風俗画報」が創刊されました。

維新後、近代化に向けて政府が採った欧化政策は、明治10年代半ばに鹿鳴館時代と呼ばれる極端な西洋迎合の時代が到来し、特に舞踏会などにいそしむ上流社会でそのピークを迎えていました。一方国民の多くは「松方デフレ」と呼ばれる緊縮財政によって深刻な不況に苦しんでおり、欧化政策は政府と国民の間に感覚のズレを生んでいました。そして明治10年代末期、これら欧化の大義だった不平等条約改正が失敗に終わると、無批判な西洋一辺倒の風潮は急速に下火になっていきました。明治20年代初頭は、大日本帝国憲法公布とともに「帝国」の流行語や「万歳三唱」が誕生し、また井原西鶴近松門左衛門などの江戸文学が再び人気を集めるなど、国民の目が西洋から国の中へ向かおうとし始めた時代でした。こうした時代背景の中、日本文化を見つめ直すような娯楽雑誌として、帝国憲法発布前日というタイミングで登場したのが風俗画報でした。

日本中に散らばる新旧あらゆる風俗を図版を用いて広く収集し、これを後世に伝えるという趣旨のもと、東陽堂の高い印刷技術による精細な銅版・石版(せきばん)画を誌面の中心に据えた風俗画報は、伝統文化をはじめ様々な社会風俗の話題を読者に提供し、グラフィック雑誌の先駆けとして明治中期以降の庶民文化の発展に大きく寄与していきました。とりわけ、慶弔・災害・博覧会・戦争などの、時事折々の特集・増刊号は、全64種類と明治の世相を網羅するほどで、豊富な図版で日本各地の風景風俗を克明に捉えた「名所図絵」シリーズは103冊にも及んでいます。

その後風俗画報は、明治27年(1894)には発行部数13万5,000部を記録するなど、明治20年代にピークを迎えた石版画の隆盛と軌を同じくするように、その人気を確立していきました。そして明治30年代に入り印刷技術の向上に伴って写真製版が登場すると、徐々に誌面に写真版を配して盛時の勢いを失い始め、それら写真版によって誌面の石版画がほとんど淘汰された大正5年(1916)3月に終刊を迎えました。通巻号数は478、増刊を含めたその総刊行数は27年間で全517冊に達しています。

参考資料: 4, 51, 123

Date: 2007/5/27 10:39:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)

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