ときのそのとき -TOPIC of AGES- 明治大正風俗流行通信
花屋敷 はなやしき (1885/3月)
浅草公園の「花屋敷」が、珍しい動植物を配した遊楽庭園として開園したのは、明治18年(1885)3月20日のことです。
花屋敷は、江戸末期の嘉永6年(1853)、当時江戸でその名を知られた千駄木の植木屋森田六三郎により、四季の花木を配した山水庭園として開園しました。当時の花屋敷は、5,000坪に及ぶ広大な敷地を構え、武家や庶民で賑わう浅草にあって、文化人や芸術家、幕府要人なども訪れる上流庭園のような趣だったといいます。時代が明治に移ってからも人気を集めていた花屋敷でしたが、もともと浅草寺領の借地であった敷地は、社寺地官収によってほどなく半分以下に減少、さらに借地料の値上げなども加わって、経営状態は著しく悪化していきました。そこで花屋敷は、園内に手を入れ、遊園の要素を取り込んで新たに再出発を図るのです。
新装した花屋敷は、かねてからの呼び物だった珍品種の花木に加え、鶴や孔雀などの動物飼育、また花期の合間には珍獣のはく製を展示するなど、様々な趣向で入園者の注目を集めていきました。この当時の花屋敷は、皇族や政府要人がしばしば訪れるなど、江戸期同様に上流庭園の雰囲気をまだ残していましたが、明治21年(1888)に五層の楼閣「奥山閣(おうざんかく)」が園内に登場するのを前後して、技芸を仕込んだ動物や書画骨董の展示など見世物を増やし、徐々に大衆性を強めていきました。こうした流れは、明治30年(1897)に浅草で手広く事業を展開していた大瀧勝三郎が経営を引き継ぐとさらに加速し、あやつり人形や生人形(いきにんぎょう)などの見世物、ブランコやすべり台といった西洋の遊具、さらには蓄音器や活動写真といった最先端の娯楽に至るまで、あまたの遊びを詰め込んで本格的に遊園化していきました。また明治36年(1903)には、第五回内国勧業博覧会に出展した海外の動物園から、トラやクマ、カンガルーやペリカンなど、珍しい動物を大量に買い付けて大きな呼び物にしています。
"花屋敷は、盆栽だけに、その名をあらはして、役者の似顔、人を迎え、操(あやつり)人形、人を笑はし、山雀(やまがら)の芸、人をおどろかす。大象、喇叭(らっぱ)を吹き、狒狒(ひひ)、女を見て狂ひ、顎魚(がくぎょ)、眠り、猿、木を上下す。奥山閣に蓄音器の歌を聞きて、最上階に入れば、ここも千里の眺望開けたり。花屋敷は、東京の見世物の王なり。" 大町桂月「東京遊行記」明治39年(1906)
大正時代に入っても、新派劇やメリーゴーラウンドなど、花屋敷は流行に応じた新しい呼び物を次々に取り込んで人気を集めていきました。しかし大正12年(1923)の関東大震災によって殆どの動物を失い壊滅、直後には近代的な遊園地の体裁を整えて再出発を図りますが、震災後の浅草公園が徐々に衰退していくのと同様に、花屋敷も往時の勢いを失い、昭和10年(1935)に動物たちを仙台市立動物園に売却して閉園しました。閉園の近い昭和9年(1934)の園内の様子を、川端康成は「浅草祭」の中でこう書き残しています。"その昔なつかしい花屋敷も、近頃の寂れようは、なかの廻転木馬の女給が爪を噛むうちに居眠りして、隣りの上田鳥獣店の、これも流行おくれのセキセイ・インコ共が埃にまみれながら花屋敷の楽隊のかわりをしている。内に入ると小暗い路の片側に等身大の電気人形の行列だけが動いて行くので、その気味の悪さは空っぽの芝居小屋の花道をお化けが通るようで、「松屋へ行こう、松屋へ行こう」と子供は泣き出してしまう。"
その後、当時の名前を復活させた現在の「浅草花やしき」が再開園を果たすのは、太平洋戦争後の昭和22年(1974)のことです。
Date: 2007/9/02 10:30:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)