ときのそのとき -TOPIC of AGES- 明治大正風俗流行通信
小川一眞 おがわ かずまさ (1860-1929)
写真製版技術の端緒を開いて、明治中期以降の写真・印刷界における新たな開拓者となったのが、小川一眞です。
万延元年(1860)武州行田に生まれた小川一眞は、熊谷の写真師、吉原秀雄の下で湿板法を学んだのち、明治10年(1877)、群馬県富岡町に写場を開いて最初の独立をしました。その後、二見朝隈、深澤要橘ら、東京の写真師との交流の中で乾板技術の存在を知り、明治15年(1882)に単身渡米、ボストンでこれら乾板製造・撮影法を学ぶとともに、炭素粉末を色材として用いるカーボン印画法や、高精細の連続階調画像を大量に複製可能なコロタイプ製版・印刷法など、写真・印刷に関する最新技術を学びました。
明治18年(1885)に帰国すると、ボストンで知己となった岡部長職の援助を得て、東京飯田町に玉潤館(ぎょくじゅんかん)小川写真館を開業し、本格的な活動を開始しました。早速カーボン印画法による肖像写真で、「永久不変写真」と評判を取り、東都写真界に頭角を顕した小川は、明治21年(1888)には日本初のコロタイプ写真製版を開始、翌年小川写真製版所を設立して量産体制を築くとともに、東洋美術の専門雑誌「国華」に精緻なコロタイプ図版を供して非常に高い評価を獲得していきました。
またこの頃から、名所風俗を扱った高品質のコロタイプ写真集を相次いで発表、これら写真製版技術の発展は、徐々に「横浜写真」を衰退させ、写真文化の大衆化、さらなる近代化を促すきっかけとなっていきます。さらに明治27年(1894)には、文字と図版を同時に印刷できる銅版印刷でも嚆矢を示し、記録・報道写真でも功績を残すなど、マスメディアの発展にも大きな足跡を残しました。
習得技術の公開も惜しまなかった小川は、早くから写真専門誌の編纂に関わり、技術発表の場としての「日本写真会」を設立、晩年には写真教育にも尽力するなど、それまで師弟関係の中で秘密主義的に守られてきた「写真術」をオープンソース化することで、日本の写真・印刷界の発展に多大な貢献を果たしました。昭和4年(1929)に神奈川県平塚市で死去、享年69歳でした。
参考資料: 68
Date: 2006/12/15 10:20:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)