ときのそのとき -TOPIC of AGES- 明治大正風俗流行通信

オッペケペー節 おっぺけぺーぶし (1888)

オッペケペー節

明治21年(1888)年秋、演歌第一号となる川上音二郎の社会諷刺歌「オッペケペー節」が、上方寄席で評判を取り始めました。

"権利幸福嫌いな人に、自由湯(=自由党)をば飲ませたい、オッペケペー、オッペケペッポ、ペッポーポー"と、世相批判を滑稽な音曲に絡ませたこの歌は、改良落語と称して大衆芸能の中に民権思想を取り込んでいた川上が、同門の上方二代桂藤兵衛が歌っていた三遊亭萬橘音曲「ヘラヘラ節」を真似て、下座(げざ)の囃子唄として歌い始めたものでした。図らずも主演目の噺よりも評判を取ってしまったのがこのオッペケペー節だったのです。

文久4年(1864)筑前博多に生まれた川上音二郎は、自由党員として自由民権運動に身を投じた壮士活動家でした。落語家の衣をまとったのは、政府批判の演説運動で逮捕拘束をくり返す中、取締の網をかいくぐって活動を続けるためでした。"貴女や紳士の出で立ちで、うわべの飾りは良いけれど、政治の思想が欠乏だ"などと、急激な近代化に追いつかない国内の実情を、皮肉たっぷりに歌うオッペケペー節は、ザンギリ頭に後ろ鉢巻き、陣羽織に軍扇をかざすといった好戦的な出立ち(Image)の妙も相まって、明治24年(1891)頃に大流行となりました。

同じころ街角には、この歌本を売るために、壮士たちが歌い歩く姿が多く見られるようになります。のちにバイオリン片手に流行歌を歌い歩く、「演歌師」と呼ばれる人々の原型でした。オッペケペー節という七五調の演説歌が生み出した流行は、路傍の歌声によってさらに大衆の中へ浸透し、「演歌」という、日本人の情念を昇華させた大衆歌謡の源流を形作っていったのです。

参考資料: 2, 3, 12, 85

Date: 2007/5/12 10:00:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)

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