ときのそのとき -TOPIC of AGES- 明治大正風俗流行通信

新富座 しんとみざ (1875/10月)

新富座

江戸期には不謹慎な見世物として差別の対象ですらあった歌舞伎が、その低俗なイメージを一変させることになったのは、江戸三座の一角であった守田座が、明治5年(1872)10月に京橋の新富町に進出したことがきっかけでした。のちに新富座と改めることになるこの新しい守田座は、歌舞伎の地位向上を図る座元、12代守田勘弥により、演目が吟味され、外国人椅子席を設置し、迎賓に耐える新式の歌舞伎劇場として開場しました。

新富座と改称するのは明治8年(1875)のことで、翌年類焼を受けて焼失するものの、明治11年(1878)6月には舞台にガス灯を据え、椅子席を増やすなど、近代化をさらに進めた新劇場として再建されました。開場式には、太政官三条実美や各国公使が来場するなど、「悪所場」とまで評された、それまでの劇場では考えられなかった地位向上を得て再出発しました。これは同時に、芸能文化が社会に果たす役割を痛感し、演劇を高尚なものへ転換させようとする、新政府の芸能政策を具体化させたものでもありました。

その後も改良歌舞伎(演劇改良運動)と呼ばれる開化もの、活歴ものなどで新時代の歌舞伎を模索した新富座は、9代市川團十郎5代尾上菊五郎、初代市川左團次による「團菊左」を擁して明治歌舞伎の最盛期を作り出し、明治20年(1887)には天覧劇を実現させるなど、新富座時代と呼ばれる一時代を形成、この成果はのちの歌舞伎座開場をも促していくことになるのです。

参考資料: 1, 58

Date: 2006/12/15 10:13:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)

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