1880 [明治13年]
明治の知的エンターテイメント「幻灯」
with Icon of「幻灯機」
明治13年(1880)、修身教育を推進する文部省は、明治に入って再び渡来した西洋幻灯(Magic Lantern)を教材に、近代道徳を視覚で教える試みをスタートさせました。これをきっかけに徐々に大衆の中へ浸透した幻灯は、社会教育、大衆娯楽、さらには戦争プロパガンダなどへと幅広く活用されながら、モダンな視覚装置として明治時代を彩りました。
西洋幻灯の発祥と日本への最初の伝来
1646年、修道士で博物学者のアタナシウス・キルヒャーがその原理を紹介した幻灯は、ガラス板に描かれた図像や文字を、太陽やろうそくなどから集光した光源で後方から照らし、凸レンズを通して前方の壁面や映写幕へ拡大して投影する、現在のOHPやスライド・プロジェクターに近い映写機器でした。暗闇に虚像を映し出すこの技術は、情操・社会教育の教材などとして利用される一方、その神秘性に着目した芸人たちによって早くから見世物へと転化し、映画技術に先鞭をつけた大がかりな幻灯ショー、「ファンタスマゴリア」などを生み出すなど、18世紀から19世紀にかけて多様化しながらヨーロッパ中に広まっていきました。
こうした西洋幻灯が初めて日本に伝わったのは、18世紀の中頃といわれています。長崎出島のオランダ貿易によってもたらされた幻灯は「エキマン鏡」と呼ばれ、見世物として国内を伝播していきました。これらの幻灯は各地で人気を集めたようですが、絶対数が少なかったこともあってか、見よう見まねで模造されていく中で日本独自のスタイルへと変容していきました。「写し絵」と呼ばれたそれらは、金属製の幻灯機を木製へ、置型機器を手持ち式へと変化させ、さらに図絵の細やかな動きをも可能にした上で、説教浄瑠璃や義太夫節などの伝統芸能・音楽と結びついて総合化し、日本固有の芸能文化へと変貌、江戸後期の大衆娯楽として発展していきました。
再び渡来した西洋幻灯
明治に入ると完全に土着化した写し絵に対して、再び西洋幻灯が開化風俗のひとつとして日本にもたらされます。きっかけは、文部省の官吏であった手島精一が、明治7年(1874)にアメリカから持ち帰った幻灯機と種板でした。西欧文物を啓蒙する視覚メディアとして、新政府により新たに立脚点の見直しがなされた幻灯は、明治13年(1880)に文部省が各府県の師範学校に奨励品として頒布をスタートし、教育的な役割を与えられて再登場しました。折しも明治12年(1879)に教育令が発布され、儒教主義的な徳育を重んずる「修身教育」が開始された頃で、幻灯は視覚に訴える近代道徳の教材のひとつとして、教育現場への普及が図られたのです。
幻灯の頒布には当初輸入品を使う予定でしたが、利便性とコストの関係で国産品でまかなうこととなり、袋物商ながら写真・幻灯の知識に通じていた浅草の鶴淵初蔵と、同じく浅草で写真師として高名だった中島待乳の二人を招聘して国産幻灯を制作させました。研究の末に完成した国産幻灯は、これ以降断続的に推進されていく日本の幻灯教育の第一歩を記すとともに、近代教育における視聴覚教材の端緒ともなりました。しかしこれらの幻灯頒布は、明治16年(1883)になると政府の厳しい財政状況の中で貸出方式へと変更され、徐々に規模が縮小されていきました。国産による幻灯機器とともに始められた幻灯教育は、小学校への普及をも見込んで頒布を開始したものの、事実上頓挫するかたちになったのです。
幻灯の大流行
官主導で始まった教育幻灯とその普及に向けた動きは、コストの問題などもあって縮小される一方、幻灯普及に向けた動きは民間において継続されていきます。特に国産幻灯機開発者の鶴淵初蔵は、「教育幻灯」と称して各地で上映会を催し喧伝に努めていました。当初は内容も難しく、また大変高価だったこともあって、なかなか庶民の注目を集めるには至りませんでしたが、明治20年代に入ると、手頃な価格のものも登場しはじめ、徐々に人気を集めていきました。同じ頃、鶴淵は幻灯を専門に扱う、鶴淵幻燈店を浅草で開業しています。また幻灯会と呼ばれる催しが、各地でみられるようになるのもこの頃でした。幻灯はモダンで啓蒙的な映像体験を提供しながら、のちの映画の上映会に通じるような楽しみをも一般に広め、大きな流行となっていきました。また幻灯が大衆に浸透しはじめたこの時期を境に、写し絵は徐々に衰退していきました。
幻灯の流行がピークを迎えたのは、明治20年代末から30年代末にかけての、日清・日露戦争を前後する約10年間でした。とりわけ日清戦争下においては、戦況を伝える報道性の強い幻灯会が多く行われ、国威発揚を促す戦争プロパガンダとして、のちのニュース映画のような効果を上げていました。また明治28年に発表された樋口一葉の小説「たけくらべ」には、主人公の子どもたちが仲間を集めて内輪の幻灯会を開こうとする様子が、日常的な遊びとして描かれており、この時期の幻灯人気の一端を窺い知ることができます。
幻灯スライド(種板)の題材には、奨励された歴史の紹介、美談や教訓、国内外の名所旧跡、自然災害など様々なものがありましたが、いずれも修身教育に則した啓蒙性の強い題材で占められていました。幻灯機の光源は、もっぱら石油ランプが多かったようで、燃料が粗悪な場合などは光力が弱く、映し出された図像がもうろうとしているというようなこともあったようです。
映画の登場と幻灯時代の終焉
幻灯は明治30年代に入っても依然人気が高かったものの、この頃になるとフランスで誕生した映画が徐々に日本でも紹介され始めていました。さらに日露戦争下では実際に活動写真が上映されるなど、幻灯が開拓した新たな視覚メディアの時代を、動く映像という革新的なかたちで塗りかえようとしていました。こうした動きは明治40年代に入ると、幻灯を扱う店が活動写真に鞍替えし、相次いで撮影所が誕生するなどして本格化、明治末期になると活動写真は幻灯の人気を追い抜いていきました。鶴淵幻燈店も、明治30年代初頭には早くも映画撮影機器を取り扱うようになり、やがて興行用活動写真の撮影、映画製作を手がけるようになっていきました。
奇しくも明治の最末期、活動写真がやがて大正という都市文化の時代の中で著しい発展を遂げていくのとは対照的に、幻灯は明治の終焉と息を合わせるかのように表舞台から遠ざかっていきました。教育的な見地から見直され、娯楽性も兼ね備えながら、広く一般への社会教育や啓蒙に役割を果たしていった幻灯は、明治時代らしい実利主義的な思想に基づいた、知覚を刺激するエンターテイメントとして大衆に浸透し、江戸の写し絵と大正以降の映画をつないでいきました。以降幻灯は、視聴覚教材として本格的に学校教育の中に取り込まれ、戦前のプロパガンダや、戦後の占領政策などでも重用されながら、昭和30年代頃まで利用されていくことになります。
Date: 2007/4/29 10:00:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)