ときのそのとき -TOPIC of AGES- 明治大正風俗流行通信
アドルフォ・ファルサーリ Adolfo Farsari (1841-1898)
日下部金兵衛や玉村康三郎と並んで、「横浜写真」全盛期の中心人物となったのが、イタリア生まれの写真師、アドルフォ・ファルサーリです。
1841年、イタリア北部のヴィチェンツァに生まれたファルサーリは、ナポリ陸軍に所属したのちアメリカへと渡り、南北戦争では北軍に参加するなど、青年期を主に兵士として過ごしました。日本にやってきたのは明治6年(1873)のことで、ここから横浜煙草商会(明治11年)やサージャント=ファルサーリ商会(明治12年)などを興し、実業家として事業を広げていきました。またこの頃にはすでに、書籍などを扱う傍ら、名所写真などを販売するなど、写真業も始めています。そして明治18年(1885)2月、海岸通17番にあった、ベアト以来の写真スタジオをスティルフリードから継承、玉村康三郎をパートナーに、ファルサーリ商会をおこして本格的に写真業をスタートさせました。
開業当初は、玉村との訴訟トラブルや、引き継いだスタジオとネガ一式を火事で失うなど、災難に見舞われるものの、すぐさま日本中へ撮影旅行に出かけて写真を確保し、スティルフリードが商材として確立させた、蒔絵や螺鈿といった日本の伝統工芸を取り込んだ豪華な写真帳、いわゆる「蒔絵アルバム」を中心に、こうした和洋折衷の輸出向け写真ビジネスをさらに大規模に展開させて盛業していきました。ファルサーリのスタジオでは、専属の写真師をはじめ、色付師や製本師、螺鈿細工師など、常時30名にもおよぶ職人たちによって、こうした豪華な写真アルバムが次々に制作されていたといいます。明治20年代に入ると、ファルサーリ商会は、日本で最高の写真を販売する写真館などと評される程に、海外での強いブランド力を発揮するまでになっていました。
その後ファルサーリは、明治23年(1890)にイタリアへ帰国した際に病に倒れ、そのまま日本に戻ることなく1898年に同地で亡くなるのですが、ファルサーリ商会はその後も日本人経営者の手で存続され、大正12年(1923)の関東大震災で被災するまで、横浜の写真界のリーダー的な存在として活動を続けました。
Date: 2006/12/15 10:19:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)