ときのそのとき -TOPIC of AGES- 明治大正風俗流行通信

ライムント・フォン・スティルフリード Baron Raimund von Stillfried-Ratenicz' (1839-1911)

スティルフリードの芸者写真 | Upcoming

フェリーチェ・ベアトが形作った横浜写真の雛形を、彩色写真や蒔絵アルバムなどによって本格化させ、商業性をさらに広げていったのが、オーストリア・ハンガリー帝国出身の貴族、ライムント・フォン・スティルフリード・ラテニッツです。

スティルフリードは、1839年、ボヘミア地方コモタウに、等爵5位の男爵(バロン)の家に生まれました。元々は画家を志望する少年でしたが、陸軍元帥だった父の意向で早くから軍人となっていました。しかしこの父に反発して18歳のときに家を飛び出し、様々な仕事をしながら世界中を放浪するようになりました。アメリカで写真術を学んだのもこうした時期で、1860年代にはさらに貿易業で中国や日本にも訪れています。1869年(明治2年)、オーストリア艦隊随行するかたちで再び日本の地を踏み、明治4年(1871)8月、横浜居留地59番に写真館を開いて活動を始めました。

その後、北海道開拓使付きのお雇い写真師を務めるなどして、順調に実績を積んだスティルフリードは、明治8年(1875)日本写真社を設立、これ以降、アメリカやヨーロッパ各国での博覧会などへの精力的な写真出品で多くの賞を獲得し、彩色写真と蒔絵や螺鈿細工などを施した豪華なアルバムによって、外国人向けの日本を写した華やかな写真ブランドを確立していきました。スティルフリードの特徴がこの彩色で、扱う写真商材には例外なく色付けを施して販売しました。

こうした中、明治10年(1877)には商才に長けたヘルマン・アンデルセンを迎えて、社名を「スティルフリード&アンデルセンと日本写真社」とし、加えてベアトからネガや写真館など一切を引継ぐなどしますが、翌年には早くもアンデルセンとの関係を解消、さらにスティルフリードは転身を図って紙幣局雇となるも半年で解雇されたり、復業を巡ってアンデルセンと裁判沙汰になるなど、徐々に不遇を囲うようになり、明治17年(1884)には日本を離れ、アジアを転々としながらオーストリアへ帰国しました。帰国後は皇帝付の宮廷絵師として名声を得たといわれています。

一方のこの日本写真社は、兄のフランツが継承するなどして存続され、明治18年(1885)に一切をアドルフォ・ファルサーリに譲渡するまで、商業文化としての「横浜写真」の端緒を開いて、横浜の写真時代に先鞭をつけていきました。

参考資料: 22, 65

Date: 2006/12/15 10:18:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)

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