ときのそのとき -TOPIC of AGES- 明治大正風俗流行通信
横浜写真 よこはましゃしん
明治中期、開港都市となった横浜で、外国人向けの商業写真文化が花ひらきました。彩色写真、幻灯スライド、蒔絵アルバムなど、日本の伝統技術と結びあって生まれた写真工芸品は、その地の名を取って「横浜写真」と呼ばれています。
幕末嘉永元年(1848)に渡来した「写真」は、約10年ののち、辛苦の末に写真術を解き明かした上野彦馬、下岡蓮杖らの先達と、来日した外国人写真師たちによって、長崎や横浜といった開港地で、ほぼ時を同じくして勃興し始めました。特に外国からの新たな玄関口となった横浜では、いち早くスタジオを開いた蓮杖が、臼井秀三郎や鈴木真一、江崎礼二ら弟子たちに写真術を教え、居留地内ではウィリアム・ソンダースやオーリン E. フリーマンが彩色を施した写真を売りはじめ、フェリーチェ・ベアトが日本各地で撮影した写真をアルバムにまとめることで商材化、また日下部金兵衛にその技術を伝えるなどして、来るべき時代の種が蒔かれていました。
彩色写真、写真アルバム、若き門人たち、こうした素材と人が結びついて迎えた明治、横浜の写真文化が一斉に芽吹いていきます。臼井(明治2年)、鈴木真一(明治6年)ら、門人たちが写場を持って独立、さらに明治10年代に入ると、金兵衛や東京から移ってきた玉村康三郎、ベアトのスタジオを引き継いだライムント・フォン・スティルフリードらも登場し、彩色写真やベアトの写真アルバムをさらに発展させた蒔絵アルバムを商材にして、一気に写真ビジネスが活発化させていきます。特に明治18年(1889)に商魂たくましいアドルフォ・ファルサーリがベアト以来の写真館を引き継ぐと、蒔絵アルバムの販売をさらに拡大させたこともあって、横浜から発信される写真文化は、明治20年代に入ると世界でも有数のブランドになっていきました。
横浜写真の商品には、四つ切り程度の焼付写真に着色師が美麗に色付けを施した「手彩色写真」を主軸に、これと同様に彩色された「幻灯スライド」、さらにカードボードに貼り付けた手彩色写真50〜100枚を、蒔絵や螺鈿を施した漆塗りの木製表紙で綴じる豪華写真帳「蒔絵アルバム」などがありました。いずれも舶来の写真文化と日本の伝統工芸が結びついた、和洋折衷の美術工芸品と呼べるものでした。こうした贅を尽くした工芸品は日本人が買うには高額で、その殆どが外国人旅行者や、居留地外国人の帰国の折りに買われた土産物であり、それがこの写真文化を横浜で独自に発展させた理由でした。
明治20年代から30年代初めにかけて大輪の花を咲かせたこうした横浜写真も、玉村写真館がアメリカから手彩色写真の大量注文を受けた、明治29年(1896)の圧倒的な輸出記録を置き土産にして徐々に衰退していきました。写真・印刷技術の発展とともに、高価な手彩色写真と趣を同じくしながら、安価で大量生産が可能な「絵はがき」の民間販売が解禁されるのは、明治33年(1900)のことでした。
Date: 2006/12/15 10:16:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)