ときのそのとき -TOPIC of AGES- 明治大正風俗流行通信

洗い髪のお妻 あらいがみのおつま (1872-1915)

洗い髪お妻 たばこカード

明治24年(1891)7月に浅草凌雲閣で開催された日本初のミスコンテスト百美人」で、得票上位陣とは別に一躍その名を知られるようになった芸妓がいます。新橋の置屋、花の家のお妻、広く「洗い髪のお妻」の名で巷間を賑わせた有名芸妓です。

百美人は、東京中の花街から集められた芸妓100人をそれそれ写真に収め、あまたの美人たちで閣内を彩るというものでした。選抜された芸妓たちは、写真になった際のその印象を統一するため、写真師小川一眞の写場(うつしば)へ足を運び、全員が同じ条件で撮影されることになっていました。6月25日に始まった撮影ですが、半月後の7月14日には早くも開催を迎えるとあって、それぞれの撮影時間も細かく指定された過密スケジュールの中で行われていたといいます。こうした中、撮影当日にお妻の取った行動が、その名を知られるきっかけとなります。

百美人出品写真のお妻「新橋小つま」

当日、お妻は身支度のために自宅で髪結いを待っていました。しかし約束の時間を過ぎても髪結いは現れず、しびれを切らしたお妻は濡れ髪もそのままに人力車を飛ばし、長い髪を垂らしたままのザンバラ髪、いわゆる「洗い髪」姿で写場へ降り立ったのです。当時女性がこうした姿で町中を歩くのは、トラブルを起こした遊女を見せしめにする時くらいのもので、自ら髪を下ろして人前に出るということは恥ずべきこととされていました。写場に到着したお妻は、すぐさま髪を調え撮影に臨み、しっかりとした日本髪姿で写真に収まったのですが、洗い髪で人前に出たという印象は何よりも強烈であったようで、その後の伝聞では、洗い髪のままで撮影したとする話や、さらに投票では1等を獲得したなどという話がまことしやかに語られるほどでした。

百美人では上位陣にこそ上らなかったものの、この撮影時のエピソードが広まったお妻は、やがて「洗い髪のお妻」の名を拝し一躍時の人となります。時に洗髪料を売る店が、お妻をいわゆるイメージキャラクターとして迎え、洗髪料のパッケージを飾って話題となったりもしています。またお妻自身もこれを自らのセールスポイントとしていたようで、写場に現れたときのような洗い髪姿で座敷に上がることもあったといいます。またこれ以降、芸妓の中にはこうしたスタイルを真似る者も増えたといい、当時の写真版や絵葉書の中には、しばしば洗い髪姿の女性をモチーフにしたものを見ることができます (洗い髪の女性の絵葉書) 。

百花堂 高級御髪あらひ粉

洗い髪の逸話に象徴されるように、時に作法にも気に留めないお妻の奔放さ、気取りのなさは、かえって人気を集める要素にもなっていたようです。お妻を贔屓にした男たちには、政界の黒幕として鳴らした右翼の大物で、晩年まで親交があった頭山満を始め、初代総理大臣の伊藤博文、軍人の西郷従道(じゅうどう)や野津道貫(みちつら)、豪商で大尽と称された米倉一平など、政財界の大物が数多くいました。またこれと同様にゴシップのたぐいも多く、頭山の庇護下にあった間に歌舞伎俳優の市村家橘(かきつ/のちの15代市村羽左衛門)と浮き名を流し、頭山が懐刀でお妻を丸坊主にするという修羅場を演じたり、その家橘に入れあげた挙げ句に5千円の借金を作って首が回らなくなった話など、派手な話には事欠きませんでした。

その後お妻は、井上吉五郎なる遊び人と2年ほど、続いて相馬事件に関わった森淳成を末弟に持つ森某(なにがし)と所帯を持ったのち、晩年は築地で「寒菊」という待合を営んでいましたが、大正4年(1915)、心臓麻痺で突然この世を去っています。享年43歳。

参考資料: 154, 155, 157, 158, 159

Date: 2007/10/21 12:47:39 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)

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