1890 [明治23年]

明治の高塔「凌雲閣」

with Icon of「凌雲閣(浅草十二階)」10階から12階部分

明治23年(1890)11月、浅草公園六区の北、区外地の千束町に、それまでの庶民の想像を超えた未曾有の高塔が出現します。俗に「十二階」の名で呼ばれた「浅草公園凌雲閣」です。明治10年代に端を発した登高遊覧場ブームの頂点を刻むように登場したこの塔は、時代の変遷の中で盛衰を極めながらも明治大正期を生き延び、関東大震災によってその姿を消しました。

明治中期の登高遊覧場ブーム

江戸時代という封建社会においては、庶民が支配階級よりも高い建物を建てることは厳しく禁止されていました。江戸期の高層建物といえば城の天守閣が思い浮かびますが、それらはあくまで庶民が仰ぎ見るものとしてだけ存在するもので、それまで高場所から見下ろすという行為は、おしなべて強大な権力を象徴する特別なものでした。明治に入って禁制が解かれると、こうした眺望を売りにした登高遊覧施設が相次いで登場してくるようになります。それらはまさに庶民の高みへの憧れを強く刺激するものでした。

山本笑月(やまもとしょうげつ)の「明治世相百話」によると、こうした建物のはしりとなったのは、明治12、3年頃に東京蔵前へできた「ハダカ女の大人形」というものだったといいます。淡島寒月(あわしまかんげつ)の「江戸か東京か」にも登場するこの遊覧場は、海女(あま)の立姿を模したハリボテの人形で、「蔵前の大人形さぞや裸で寒かろう」などと流行歌を生み出すほどに好奇の視線を集めていました。続く明治18、9年頃には、高村光雲が原型制作をした下谷佐竹の原の「大仏」が登場、大人形とともに人気を取っていたといいます。これらの遊覧場は、いずれも客に胎内潜りを体験させることが主体の見世物小屋で、高さは15mほど、胎内を登って頭のてっぺんから四方を展望できるのが特徴でした。

富士山縦覧場開業広告

こうした流れをさらに進めるかたちで、明治20年(1887)11月に浅草公園六区へ登場してきたのが「富士山縦覧場」です。文字通り富士山を模して築造されたこの人工山は、外周を螺旋状に登らせて頂上まで行く構造で、高さ32.7mとそれまでにない高みとそこから生まれる眺望を第一の売りにした最初の登高遊覧場でした。木骨骨組をハリボテで覆ったこの簡素な建物は、明治22年(1889)8月の暴風雨によって大破し、わずか数年で取り壊しとなるのですが、公園六区が華やかに発展し始める勃興期にあって、人造富士、浅草富士、仮富士などと、数多くの名前が付されるほどに大変な注目と人気を集めていました。

富士山縦覧場が生み出した登高遊覧場のひな形は、このあと大阪へと一気に場所を移して、本格的な広がりを見せ始めます。最初に登場したのが、大阪日本橋へ建設された「眺望閣」です。明治21年(1888)7月に登場したこの木造楼閣は、大人形や富士など大がかりな造形物という方向性から離れ、階層と高さを売りにした、さらに本格的な登高遊覧場でした。この流れは新たに階層の競い合いといった状況も呈し、翌22年(1889)4月には現在の北区茶屋町へ浅草のものと同名の九層楼「凌雲閣」が登場、それぞれ「北の九階」、「南の五階」などと呼ばれ、競合しつつ互いに大きな人気を集めていきました。さらに大阪ではこの他にも、明治22年3月には今宮に石造5階建ての「商業倶楽部」、同年9月には西区梅本町へ富士山縦覧場を模した「浪花富士」も相次いで登場しています。大阪へと飛び火した登高遊覧場建設は、わずか1年の間に建設ラッシュを呼び、日本の東西を結んで本格的なブームを生み出していたのです。

凌雲閣の誕生

こうした登高遊覧場ブームのピークを飾って登場してきたのが、浅草の「凌雲閣」です。前掲の大阪凌雲閣をさらに3階層更新した12階建のこの楼閣は、10階までが煉瓦造、11階と12階の展望塔は木造というユニークな構造で、閣頂の避雷針を含めたその高さは、当時の触れ込みで220尺(実際の高さについて)という未曾有の高層建築でした。

凌雲閣開業広告

当時の新聞には、設計が開始されたのは明治22年(1889)10月、工事着工は翌23年1月4日で、同年10月25日に竣工を迎えたとあります。発起人は新潟長岡の生糸貿易商、福原庄七という人物で、1889年に完成したパリのエッフェル塔を実見したとも言われますが、相次ぐ高所遊覧場とその流行に乗り、最高層であった大阪凌雲閣をしのぐ高塔で遊客を集めようという意図があったようです。設計は英国人技師のウィリアム K. バルトン、工事の請負は日本橋で建築請負業をしていたとされる和泉孝次郎、現場で建築監督にあたったのは伊澤雄司でした。

ウィリアム K. バルトン(William Kinnimond Burton)は、スコットランド生まれの衛生技師で、明治20年(1887)に帝国大学工科大学新設された衛生工学講座の教師として来日しました。バルトンは同校での指導のかたわら、内務省衛生工事顧問、東京市市区改正条例委員、上下水道設計調査委員会取調主任などを歴任、とりわけ水道整備においては、その業績をして「日本の上下水道の父」とも評されています。八角形の煉瓦造という特徴的な凌雲閣のアイデアは、水道敷設の際に設置される配水塔の意匠からきたのではないかとも言われています。

浅草公園凌雲閣

高塔に詰め込んだ数々の呼び物

凌雲閣(十二階)閣頂からの眺め

着工からおよそ10ヶ月を費やした凌雲閣は、明治23年11月11日に開業を迎えました。開業直後から登覧客は大変な数だったようで、最初の日曜日となった11月18日には一日で6,800人あまりを動員した他、翌24年正月の三ヶ日には、延べ2万人を越す人出があったといいます。"胸宇快調 意気軒昂" などと登覧客が胸を躍らせた閣頂からのその眺めは、脚下に東京市街をくまなくおさめるとともに、好天の折りには遠く富士山をはじめ、箱根、日光、房総など、関東一円にあまねく山々を望めたといいます。田山花袋は「浅草十二階の眺望」の中で、清秋のその山の眺めを "日本にもたんとない眺望の一つ" と評しています。

大日本凌雲閣之図

比類なき最高層を売りにした凌雲閣はやはりその眺望が一番の目玉でしたが、閣内には他にも、最新堅牢を謳った煉瓦造の近代的な外観同様、随所に最新の技術を取り込んでいました。最も大きな呼び物だったのが、当時世界でも最先端であったという電動エレベーターです。白熱舎の藤岡市助と三宅順祐が設置したこのエレベーターは、閣内中央につるべ式で2台設置され、1階から8階までを1分ほどで昇降したといいます。残念ながらこの最新型の呼び物は登場が少々早すぎたのか、設置当初から不具合が多く、開業後わずか半年で運転停止となりますが、乗用エレベーターの設置としては日本で初めての試みでした。また藤岡と三宅は、閣頂に5,000燭光のアーク灯2基を、閣内には各階に電灯3基を設け、塔全体を最先端の電気技術で彩っています。とりわけ高輝度を誇るアーク灯のその明るさは、"満月を欺くに等し"(工談雑誌第22号)、"月光を奪って不夜城の感あらしむ"(明治23年10月27日読売新聞) などと評されるほどでした。

浅草公園凌雲閣広告

12のフロアがある閣内はどのようになっていたのでしょう。レイアウトは時代によって変化があったようですが、当時の新聞記事によると、開場時の閣内は、世界各国・日本各地の産物を売る46の店舗が、勧工場式に2階から7階までを占め、エレベーターの停止階となる8階は休憩室を兼ねたスペース、9階は美術品などを展示するイベントフロアで、10階から12階までが眺望室になっていたということです。またこの眺望室には各窓に椅子が備え付けられ、別途1銭を払うと30倍の望遠鏡で遠景を楽しむことができました。フロア構成からみると、閣内はのちの百貨店のそれとよく似た雰囲気だったことが窺えます。

また呼び物のエレベーターを早々に失った凌雲閣では、展望室までの長い上り下りを飽きさせないよう、様々なイベントを用意して誘客に努めてもいます。明治24年7月に開催された日本初の美人コンテスト「百美人」を皮切りに、「古今美人画展覧会」(明治25年2月)、「日本百景ジオラマ」(明治26年4月)など、趣向を凝らした多くの企画展示が明治20年代末まで数多く行われました。とりわけ東京下の名妓100人の写真を一堂に介した百美人の人気は圧倒的で、閣内は "押し返されぬ雑踏を極め" というほどの賑わいだったといいます。

人気の衰退と十二階下

浅草公園凌雲閣

最高層からの眺望、煉瓦造、電灯、勧工場、加えてエレベーターとその代替として用意された誘客イベントというように、最新の流行風俗と、趣向を凝らした見世物を詰め込んだ凌雲閣でしたが、珍しがれらた時代が過ぎると客足は徐々に遠のいていきます。

とりわけ最大の目玉である、眺望に対する興味が人々の中で薄らいでいくに従い、その人気は大きく下降線を辿っていきました。壮観ではあっても継続的な感動を生み出し難い眺望は、初回こそ強い感動を与えるものの、印象が強いだけに飽きられるのも極めて早かったのです。これは同時期に登場したパノラマ館も非常によく似た特徴を持っていましたが、パノラマ館が絵を入れ替えることで人気を盛り返すことが出来た一方、変化に乏しい実景そのものを見世物にしている凌雲閣はさらに厳しい性格を抱えていたといえるでしょう。さらに追い打ちをかけたのが、明治27年(1894)6月に起きた東京大地震です。地震の影響で煉瓦壁に亀裂が入った凌雲閣では、数ヶ月にわたって大規模な補強工事が行われますが、これ以降はその安全性に対しても大きな不安を抱かせるようになり、堅牢を謳ったはずの建物への信頼すら大きく失墜させてしまうのです。

浅草公園凌雲閣

明治30年代に入り、ことさらにその人気が凋落していく中、凌雲閣はその高みとは別の意味を含んだ言葉として、人々の口の端に上るようになっていきます。塔下一帯に広がった銘酒屋街、いわゆる私娼窟を指す「十二階下」です。銘酒屋や新聞縦覧所、曖昧屋といった、申し訳程度に品物を置くこれら名ばかりの店は、明治20年頃から東京各所でその数を増やしていましたが、明治30年頃に府がこれらをまとめて管理をするために浅草へ集めたことで、塔裏手の千束町一帯に私娼街が形成されていきました。これらは普及が始まった明治34年(1901)頃には40軒前後という数でしたが、明治40年(1907)になると800軒近くという驚くべき数字に膨れあがっていました。この頃になると最新流行をまとって登場したかつての塔は、都市の裏名所を指し示す目印として、怪しげな雰囲気さえ醸し出すようになるのです。

近傍の吉原遊郭をも圧倒するほどのおびただしい数の銘酒屋で埋め尽くされた十二階下は、この頃ほとんど日本中に知られ、地方からの見物客の多くが東京名所のひとつとして訪れるほどであったといいます。またこの異空間は、石川啄木竹久夢二室生犀星(むろうさいせい)など、多くの文学者や芸術家もその魔力に魅せられるように足を運んでいます。とりわけそうした中でも最もよく知られる石川啄木は、人生に対する激しい煩悶を重ねる中でしばしばこの地へ足を踏み入れており、「ローマ字日記」には、赤裸々な描写ながらも真摯に綴られたその日々の営みに交じって、十二階下の様子がありのままの姿で落とし込まれています。

塔の崩壊とひとつの時代の終わり

大正期に入った凌雲閣は、それまでの俗称であった「十二階」を正式な名称に変えていました。また明治44年(1911)に開場した「十二階演芸場」の評判にも助けられ、この頃はわずかながらも経営を持ち直していたようです。大正3年(1914)には閣内のエレベーターも復活し、ここにきて十二階はどうにか開業時のラインナップを取り戻しています。しかしながらこれ以降も盛時の賑わいを取り戻すことはなく、大正9年(1921)には爆破による打ち倒し計画すら持ち上がっていたといいます。この頃の絵葉書に見る十二階は、公園六区の高さ制限に守られて、尚もひときわ高くそびえていますが、華やかに居並んだ興行施設の後ろから古びた赤煉瓦を覗かせるよそ者のようなその姿は、ひとり孤独な表情を浮かべているようにも見えます。

浅草公園十二階

震災直後の十二階

盛衰を極めた十二階を崩壊させる関東大震災が起こったのは、大正12年(1923)9月1日のことでした。首都圏一帯をマグニチュード7.8という未曾有の直下型地震が襲い、各地に甚大な被害を及ぼしていたとき、十二階はその8階から上層を跡形もなく失い、ぽっかりと空へ開けた煉瓦壁の内側から断末魔のごとく炎を噴き上げていたといいます。焦土に残ったのは、焼けただれ、壁面から鉄骨をだらりと垂らした無惨な姿でした。残骸となった十二階は、倒壊の危険があったため、ひと月を待たずに陸軍赤羽工兵隊の手で爆破されることになります。大正12年9月23日午後3時30分、爆音ととも崩れ去っていく十二階は、赤煙を吐きながら内側へ小さくしぼんでいったといいます。

"くずれ終わると見物人は一度に押し寄せたが、酔狂な二三の人たちは先を争って砕けた煉瓦の山の頂上へ駆け上がった。中にはバンザーイと叫んだのもいたように記憶する。明治煉瓦時代の最後の守りのように踏みとどまっていた巨人が立ち腹を切って倒れた、その後に来るものは鉄筋コンクリートの時代であり、ジャズ、トーキー、プロ文学の時代である。" 寺田寅彦Liber Studiorum

震災後、浅草公園が逞しく復興を遂げていく中、十二階の建っていた跡地には往時を偲ぶように「凌雲座」という劇場に変わりました。しかし新時代の到来はこの劇場の存続を許さなかったようです。凌雲座は数年で看板を下ろし、代わって登場したのは、その時代の名を冠に配した「昭和座」でした。明治の高塔は、まさにこの新たな時代「昭和」の訪れとともに完全に失われたのです。

参考資料: 1, 3, 19, 25, 139, 145, 146, 147, 148, 149, 150, 151, 152, 153, 154

Date: 2007/9/30 22:00:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)

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