ときのそのとき -TOPIC of AGES- 明治大正風俗流行通信

銀座煉瓦街 ぎんざれんががい (1873/10月)

銀座煉瓦街

明治5年(1872)2月26日、和田倉門付近から上がった火の手は、強風にあおられて瞬く間に延焼、銀座・築地一帯を焼き払いました。41ヶ町5,000戸を焼失させた、いわゆる「銀座の大火」です。

遷都間もない東京に大きな衝撃を与えたこの大火は、木造家屋中心であった日本の都市の脆さを露呈させ、煉瓦による不燃化都市政策を推し進めるきっかけとなりました。焼失した銀座の再建は、この政策に基づき、早くも同年8月に開始されます。それが大蔵省雇のお雇い外国人トーマス J. ウォートルスを設計・監督にあたらせた「銀座煉瓦街」でした。

ウォートルスは、大阪造幣寮建設で垣間みせた土木建築全般にわたる広範な技術力を生かして、道幅の策定から、各商店家屋の設計、さらには小菅集治監内に最新式のホフマン式輪層窯を築いて煉瓦製造を行うなど、街区建設に関わるほぼ全てをこなしていきました。その街並みは、15間(27.3m)に拡幅された車道と、街路樹とガス灯が配された3間半(6.36m)x2の歩道によって構成された表通りを中心に、8間(14.5m)の交差通りや3間(5.45m)の裏路地に至るまで緻密に設計されており、通りに沿って区画分けされた2階建連結式商店家屋は、列柱を配した歩廊にバルコニーを設けた、ジョージアン様式によって整然と統一されていました。

着工から1年後の明治6年(1873)10月に表通り部分が完成した煉瓦街は、以降も断続的に建設が進められ、明治10年(1877)にその全計画を完了しました。居住環境としての煉瓦街は、高額な家賃や湿気による被害など、多くの問題は抱えていたものの、訪れる人々からは「煉瓦通」や「煉瓦」などと呼ばれて親しまれ、東京の新名所としての地位を一気に確立、一躍銀座を首都東京の中心街区として機能させていくことになるのです。

参考資料: 1, 8, 11, 16

Date: 2006/12/15 10:08:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)

コメントを投稿 - Post A Comment