ときのそのとき -TOPIC of AGES- 明治大正風俗流行通信
トーマス J. ウォートルス Thomas J. Waters (1842-1898)
新開地を渡り歩く「ながれ」の仕事人として、維新期の西洋館建設ラッシュの中心に存在したのが、イギリス出身の建築技師、トーマス・ジェームズ・ウォートルスです。
1842年、アイルランドのオファリー州に、外科医の長男として生まれたウォートルスは、20代前半で英国王立の香港造幣局建設に携わったのち、幕末長崎のグラバー商会に雇われて、日本での活動を開始しました。当初薩摩藩の西洋工場建設などにあたっていたウォートルスでしたが、グラバーの推薦で大阪造幣寮の建設を指揮すると、これを成功に導いて、一躍新政府の建設計画で中心的な役割を担っていきます。
明治3年(1870)東京へと転じ、大蔵省営繕寮雇のお雇い外国人となったウォートルスは、大蔵省金銀分析所(明治4年)に始まり、軍駐屯地の竹橋陣営(同4年)や、初の鉄製吊り橋となった皇居山里吊橋(明治5年)など、毛色の違う様々な建築物で、都市建設全般におよぶ広範な技術力を発揮していきました。それは、新開地を渡り歩き、土地の管理から土木工事、設計建築、さらには資材調達に至るまで、建設計画全てをひとりで請け負う、Surveyor(総合監督士)と呼ばれるウォートルスの面目躍如たる特性でした。とりわけその総合力を街区全体に注いだ、明治6年(1873)の銀座煉瓦街は、のちにウォートルス時代などとも呼ばれる全盛期が生み落とした象徴的な成果でした。
しかし明治5年(1872)にフランス人建築家のチャールズ A. ボアンヴィル、イギリス人のウィリアム・アンダーソンが相次いで来日するなど、徐々にヨーロッパから本格的な「建築家」の招聘が始まると、ながれ技師のウォートルスがアプローチする粗野な意匠は、そうした専門家らには疑問符のつくものとなっていきます。煉瓦街でキャリアのピークを迎えたウォートルスは、皮肉にもキャリアを積み重ねていくことで日本人の建築に対する視野を広げさせ、急速に時代の要求に応えられなくなっていくのです。煉瓦街の成功から2年後の明治8年(1875)には早くも解雇、日本を離れるのは明治10年(1877)のことでした。
その後もウォートルスは、上海租界で同様に技師として活動したり、アメリカに移ってコロラド銀山を発掘するなど、新開地の仕事人らしい活躍を続けたのち、1898年、56歳で同地に没しました。
Date: 2006/12/15 10:09:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)