ときのそのとき -TOPIC of AGES- 明治大正風俗流行通信

内国勧業博覧会 ないこくかんぎょうはくらんかい (1877/8月)

第五回内国勧業博覧会全景

日本の博覧会の試みは、明治4年(1871)に物産局が開催した、「大学南校物産会」を端緒に始まりました。同年10月には、京都の商人らが出資して、博覧会の名前を初めて使った、民間主導による「京都博覧会」が開催されています。しかしこれらはいずれも博覧会というより、古物骨董の売立会に近いものであったようです。

同じ頃、欧米に派遣されていた岩倉遣欧使節団一行は、ウィーン万国博覧会を視察して、その産業力はもとより、圧倒的な規模で技術振興を図る、博覧会という事業そのものに衝撃を受けました。随行していた内務卿大久保利通は、とりわけこの博覧会に強い印象を覚えたひとりでした。早急な近代化へ向けて、国内でもこうした博覧会の必要性を痛感した大久保は、帰国後すぐに殖産興業政策に基づいた、純粋な産業振興を目的とする、政府事業としての博覧会の開催を計画しました。

こうして明治10年(1877)に実を結んだのが、「内国勧業博覧会」でした。この日本初の本格的な博覧会は、8月21日から11月30日の102日間にわたって開催され、上野公園を主会場に、各府県から募った8万4千点に及ぶ出品物を6部門に分けて展示、45万人超の来場者で盛況を博しました。さらに場内は、小林清親が意匠を施した「花瓦斯」と呼ばれる装飾ガス灯や、大時計台、アメリカ式風車などで彩られ、近代化を視覚で直接訴える、文明開化の教化メディアとしても機能していました。

こうした勧業政策に基づく一大国家プロジェクトは、第二回(明治14年/1881)、第三回(明治23年/1890)が引き続き上野公園で行われた後、明治28年(1895)の第四回は京都岡崎、明治36年(1903)の第五回は大阪天王寺と、東京以外の2都市でも誘致開催されていきました。そしてこれらはいずれも、開催するたびに膨大な赤字を計上していくのですが、こうした貪欲な近代化への試みは、明治日本の驚異的な産業発展に多大な貢献を果たしていくことになるのです。

参考資料: 1, 3, 14, 39

Date: 2007/1/20 10:30:10 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)

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