ときのそのとき -TOPIC of AGES- 明治大正風俗流行通信
歌舞伎座 かぶきざ (1889/11月)
明治22年(1889)11月21日、日本を代表する歌舞伎劇場「歌舞伎座」が銀座木挽町に開場しました。
明治5年(1872)に新富座が完成し、地位向上が図られ始めた歌舞伎でしたが、舞台上で裸を見せるようなろう習的な演出は、しばしば海外来賓の非難を受ける状況でした。明治19年(1886)に政府主導で発足した演劇改良会は、「演劇改良運動」と称してこうした歌舞伎の西洋化、近代化を唱えます。これは幕末の不平等条約の改正に向け、明治政府が強力に推し進めていた欧化政策の一環でした。しかし折しも条約改正の失敗や経済不況からこの政策がつまずき、西洋思想が急激に下火になり始めた世相下で、この演劇改良会も後ろ盾を失い、徐々に衰退していきました。
こうした中、理想的な演劇改良を実現させるため、独力で新劇場建設に乗り出したのが、東京日日新聞主筆ややまと新聞顧問などを務めた、ジャーナリスト/政論家の福地源一郎 (ふくちげんいちろう)でした。岩倉使節団に随行して以降、欧米における演劇の文化水準の高さを痛感し、演劇改良の中心人物でもあった福地は、遅々として進展を見ない官制の演劇改良に業を煮やし、自ら劇場建設に踏み切ったのです。福地は、演劇人の金融業者として資金力を持つ千葉勝五郎を出資者に据え、京橋区木挽町の東京府第三勧工場所有の空き地を払い下げで買い取ると、大倉喜八郎の日本土木会社に建設を依頼、明治22年初頭の着工から1年足らずでその新劇場を完成させるのです。銀座の2,000坪の敷地に堂々完成したその新劇場「歌舞伎座」は、クラシック様式3階建の純洋風外観に純和風内装、2階および3階に桟敷席を有し、定員数1,284人の見物場全てが枡席という、和洋折衷の大型劇場でした。
こうして誕生した歌舞伎座は、それまでの歌舞伎の演目を近代的に改変した「改良芝居」と、団菊左をはじめとした花形俳優を揃える大劇場として、徐々に人気を集めていきました。そして福地の精力的な脚本創作と、それを演じる市川団十郎との緊密な協力の中、歌舞伎座は歌舞伎の地位向上に大きな役割を果たしていくとともに、江戸歌舞伎を近代的な解釈によって継承することで、現代歌舞伎の礎を築いていくことになるのです。
Date: 2007/7/01 11:20:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)