ときのそのとき -TOPIC of AGES- 明治大正風俗流行通信
日下部金兵衛 くさかべきんべい (1841-1932)
横浜写真を象徴する写真師のひとりで、蒔絵アルバムの創始者ともいわれるのが、ベアト門下の写真師、日下部金兵衛です。
天保12年(1841)、甲府の御用商人の家に生まれた金兵衛は、17才のときに江戸へ出奔、安政6年(1859)頃、生活の糧を求めて横浜へと移り、文久3年(1863)頃、開業間もないベアト・アンド・ワーグマンのスタジオに雇われ、写真の世界に足を踏み入れました。当初はベアトの助手として雇用され、着色作業に従事していたといいます。その後、ベアトがスタジオを閉じた明治10年(1878)から明治14年(1882)までの間に独立、弁天通2丁目36番に「金幣」の商号で写真館を開いて本格的に活動を開始しました。また金兵衛はこの開業以前、スティルフリードのスタジオに、写真師および着色師として参加していたともいわれています。
開業後、順調に事業を拡げていった金兵衛は、やがて横浜市内にいくつか支店を出すまでに盛業していきました。明治23年(1890)にはメインストリートの本町通7番へと移転、着色師としてのバックグラウンドを遺憾なく発揮し、外国人向けの土産物としての美しい彩色写真で大成した金兵衛は、この頃になるとファルサーリや玉村康三郎などと並んで、横浜を代表する写真師のひとりとなっていました。金兵衛の手による写真作品は、同時代の写真師たちと比べても際立ったものが多く、深い奥行きを蓄えた構図には、視線を導くように点景人物を配すなど、単に被写体をフィルムに留めるだけでは飽き足らない、美への追求心を覗かせるものでした。そうした主製品の風俗写真は常時2,000種を超えてストックされ、現在「金幣アルバム」などとも称される、螺鈿細工や蒔絵を表紙に施した豪華な写真帳「蒔絵アルバム」に綴じられて、外国人の日本土産として海を渡っていきました。他にも金幣写真館では、ガラス製の幻灯種板やコロタイプ印刷を用いた絹団扇、さらにカフスボタンや鏡、アクセサリーのロケットなど、多種多様な写真製品が並んでいました。
明治30年代から40年代になると、大量生産を可能にする写真製版技術の発展、とりわけ絵はがきの爆発的な流行などに押され、工芸品としての写真は徐々に時代に取り残されていきます。衰退していく横浜の商業写真文化の中にあった金幣写真館も、大正元年(1912)に金兵衛が引退すると、2年後の大正3年(1914)に看板を下げて、明治という時代に殉じるように幕を降ろしました。晩年は日本画を描いて余生を送り、昭和7年(1932)4月、92歳で世を去りました。
参考資料: 22, 23, 24, 66, 121, 122
Date: 2007/4/07 10:07:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (0)