数多の芸妓によって彩られた明治のミスコンテスト 凌雲閣百美人
明治24年(1891)7月、開業半年を迎えた浅草公園の高塔凌雲閣で、「百美人」と呼ばれる催しが行われました。当時の有名芸妓100人の写真を展示し、投票によって美人を選抜した、日本初のミスコンテストといえる催しです。
明治23年(1890)11月に開業した凌雲閣では、日本初の乗用エレベーターを大きな呼び物としていました。しかしながらそれまで国内で前例のないこの乗物は試運転当初から度々不具合を起こし、開業後もこれらが改善されなかったこともあって、翌年5月には当局の指導により早くも運転停止に追い込まれてしまいます。エレベーターを失ったあとも一日平均300人と多くの登覧者を集めていた凌雲閣でしたが、夏の書き入れ時を前に最大の呼び物を失った損害は大きく、すぐにこれに変わる新たなイベントを用意することになります。長い階段の上り下りを飽きさせないもの、それがあまたの美人たちというわけで、こうして急遽企画されたのがこの百美人だったのです。
この少々露骨に誘客をねらう見世物のような催しは、閣内に100人の写真を掲げ、登覧客の投票によってさらなる美人を選抜させるというものでした。これは現在でいうミス・コンテストの形式を取っており、実際に開催されたものとしては日本で初めてとなるものです。とはいえ女性が公衆の面前に姿をさらすことを恥ずべきこととする風潮があった時代であるだけに、広く女性を募集する現在のようなかたちではなく、その女性たちはすべて、新橋や日本橋、芳町など、府下に名だたる花柳の巷から選抜された「芸妓」、いわばプロの美人たちでした。
これら100人に及ぶ芸妓たちの撮影を行ったのは、アメリカで最新の撮影術を習得し、当時新世代の写真師として頭角を顕していた小川一眞です。小川は、通常の写場(うつしば)の営業を中止してこの撮影にあたるとともに、背景の違いでその印象に差が出ないようにと、新たに撮影用の日本間を新築して統一感のある演出を施しました。完成した美人写真は、縦三尺(90cm)、横二尺(60cm)におよぶとても大きなもので、それぞれに彩色が施され、また豪華に額装されていたといいます。当時の新聞によると、閣内ではこれらを花街ごとにまとめ、3階から6階に各階約25葉づつ展示されていたということです。またこのとき百美人として掲示された芸妓以外にも、世話人の老妓が2階に展示されており、実際に写真としてまとめられた女性たちは総勢で105人に上っています。
百美人の催しが始まったのは7月15日のことです。当初30日間としていたその日程は、8月13日を投票〆切日としていました。その投票方法は、凌雲閣の登覧券と引き替えに投票用紙をもらい、芸妓の名前を記入し投票するというもので、この投票を1週毎に集計して各週の上位5名を毎週発表しつつ、最終的には得票数の合計で総合得点を競うというものでした。しかしながら投票が始まった直後から、芸妓の旦那筋による票の買収や、催しに反対する人々による得票数の操作といった投票の不正があり、凌雲閣側はこれに対応するかたちで相次いで予定を変更していくことになります。まず週ごとの経過発表を見送って、3週目に得票数を甲乙に分けた簡素な発表だけに留めますが、結果的に〆切直前の経過発表となったために、追い込みで票数を伸ばそうと投票運動がさらに活発化、このため当初の結果発表日の8月14日を1ヶ月間の経過発表に変更してさらなる期間延長を決め、最終的な日程は7月15日から9月12日までの60日間というかたちとなっています。
芸妓を一堂に介させるというこの催しは、当人たちにとってはその評判が花代(はなだい)に直接影響することもあって、開催中は何かとトラブルが多かったようです。途中経過を事細かに掲出するという案に対して、自分の写真を引き揚げると抗議が相次いだり、中には閣主に飛びかかるものもいたといいます。とはいえイベント自体への客入りはかなり上々で、初日から身動きが取れないというほどの登覧客を集め、また各花街では遊客を巻き込んでの投票合戦が盛んになるなど、急ごしらえの呼び物としては思いのほか人気を獲得し大成功を収めました。凌雲閣ではこの大入に気をよくして、期間中に早くも娼妓100人を選抜する第2回百美人の計画も披露しています。多くの話題を提供したこの艶やかな女性たちの競演は、2,163票を獲得した玉川屋の17歳、玉菊が一等となり、そのほか上位4人も新橋芸妓が独占するというかたちで幕を閉じました。
百美人はその後、明治25年(1892)、明治27年(1894)と第3回まで開催されています。この第一回百美人では、濡れ髪のまま写場へ訪れたことで話題をさらい、のちに広告モデルにも起用された「洗い髪のお妻」といった有名人も輩出しています。現代のミス・コンテストと同様に、ポップイコンを生み出して産業と結びつくという構図も作り出していたのです。
凌雲閣建設は、そのひとつに明治22年(1889)の帝国憲法発布を記念するものだったともいわれています。エルヴィン・ベルツの日記によれば、その当時の東京下は "言語を絶した騒ぎ" で、これに続いた明治23年11月の第一回帝国議会も、庶民にはめでたい「お祭り」として捉えられていました。議会当日は凌雲閣でも華やかな祝祭が催されています。百美人が開催されたのはこれからおよそ半年後のことですが、当時の報道にはこの帝国議会の衆議院議員選挙を引き合いに出し、"初期国会議員の候補者競争よろしく" などと評しており、この「お祭り」の余韻のようなものはまだ残っていたようです。川端康成は随筆「浅草」の中で、"浅草はどんな新しいものを受け入れる場合にも、浅草風にー つまり、浅草型に変形してしまう" と書いていますが、あるいはこの百美人もこうした世相を「浅草型」に取り込み、代議士が座敷に呼ぶ芸妓のほうを「選挙」で選んでしまおうというような、諷刺の効いたアイデアだったのかもしれません。
Date: 2007/10/14 10:30:00 | Posted by mikio | コメントを投稿する