1890 [明治23年]
藤岡市助と日本初の白熱電球
with Icon of 白熱舎「藤岡式白熱電灯球」
明治23年(1890)8月12日、のちに東芝へと発展する電灯会社「白熱舎」で、日本初の白熱電球が完成します。当時の世界の最先端技術であったこの白熱電球の国産化は、一国の産業発展の根幹をなす自給自足の精神を具現化して、独立した近代国家への道へと通じる大きな一歩となりました。
欧米における白熱電球の発明
照明灯は、昼夜を問わず生産活動を行う工場照明の需要に伴って発展を遂げてきました。18世紀末にイギリスで始まった産業革命は、生産性を高めるためによりよい照明を必要とし、天然燃料を用いたガス灯、さらには電気を使ったアーク灯の発明を促してきました。しかしガス灯よりも遙かに明るさを増したこのアーク灯も、輝度が高すぎて室内作業用の照明としては不向きでした。こうした中、新たに注目を集めたのが、真空環境で金属フィラメントに電流を通し、白熱状態にさせて光を得る白熱電球でした。
この白熱電球の発明に世界で初めて成功したのは、イギリスの化学者J. W. スワンです。スワンは、1878年に木綿糸を硫酸処理することで炭化させたフィラメントを使って、炭素フィラメント電球を完成させました。続く翌1879年には、アメリカの発明家トーマス・エジソンが、木綿縫い糸と炭素粉末から作った炭素フィラメントに加え、管球内の真空度をさらに高めた電球によって、40時間の長時間点灯を達成し、さらに性能の良い白熱電球を開発しました。そして欧米ではこれ以降、約10年ほどの間に、電灯の技術が革新的な発展を遂げていました。
藤岡市助と電球の出会い
こうした照明電灯が日本で初めて点灯されたのは、明治11年(1878)3月25日のことです。電信中央局の開業祝賀会において、会場となった工部大学校大ホールの場内を照らすため、物理学講義用のデュボスク式アーク灯が選ばれたのです。工部大学校教授のウィリアム E. エアトンが指導をしたこの日本初の電灯点灯実験は、不安定な点灯ながらも新技術の一端を垣間見せ、来場者を驚嘆させました。そしてこの実験の助手をした学生の中に、のちに日本初の白熱電球を完成させる、弱冠21歳の藤岡市助の姿がありました。
藤岡市助は、安政4年3月14日(陽暦1857年4月8日)、周防国(現在の山口県)岩国に、藩の御蔵掛を務める藤岡喜介の長男として生まれました。幼少時より藩校に学んだ市助は、維新後新たに開設された岩国英国語学所で頭角をあらわすと、17歳のときに東京遊学を命じられ、工部大学校の前身となる工学寮へと進みました。工業の発展に寄与して国に尽くそうと考えていた市助は、電信科で電気工学の研究にいそしみ、ウィリアム E. エアトンから電灯の性質調査を命じられたのを契機に、熱心にこの研究を進めました。そしてここでの研究が、日本初の白熱電球を産み出す基礎となっていくのです。
電気技術の普及と自給への道
明治14年(1881)に工部大学校を首席で卒業した市助は、同校で教職を務め後進の指導にあたるとともに、電気技術の普及にも努めていきます。明治15年(1882)に設立された東京電燈(現・東京電力)は、市助の提唱に端を発しており、またこの事務所開設に伴って、銀座通りに2000燭光のアーク灯を設置するなど、広く一般へ電気の普及に尽力していました。しかし普及を進めても、消耗品の電球は輸入に頼る以外になく、これは利便性でもコストの面でも、大きな問題のひとつでした。
明治17年(1884)、政府使節としてフィラデルフィア万国博覧会へ派遣される機会を得た市助は、その足で、かの白熱電球を発明したトーマス・エジソンを訪ねます。生涯を電気事業の発展に捧げたいと熱く語った市助に対し、エジソンはこうアドバイスします。「いかに電力が豊富でも、器具を輸入に頼るようならその国は滅びる。電気器具の製造を手がけ、自分の国を自給自足で賄えるようにしなさい。」この言葉に強い感銘を受け帰国した市助は、白熱電球の国産化に日本の未来を見いだし、この研究に全力を尽くすようになります。しかし国内で誰も手がけたことのないこの電球製造は、最も困難な道でもありました。
未知の白熱電球製造
明治19年(1886)、電気事業に専心するために教職を離れた市助は、さきの東京電燈の技師長に就任します。そして明治21年(1888)12月、社宅の一室で始まった白熱電球製造は、当初から困難を極めたものでした。英国から輸入した電球製造機械は、組み立ての説明書もなく、製造に用いる材料や薬品ですら国内では手に入らないという状況で、文字通りその製造は手探りの中で進められていったのです。
市助は当初、東京電燈の付帯事業としてこの電球製造の研究を続けていました。しかし市助には、こうした仕事は独立経営にしてさらに発展させるべきという考えがあり、同郷の三吉正一と協力して新会社を設立することにします。明治23年(1890)4月、白熱電灯開発に賭ける市助らの熱意によって誕生した合資会社「白熱舎」は、日本初の照明会社となるものでした。そしてこれ以降市助は、さらに本腰を入れて電球製造に取り組んでいきました。
白熱電球の製造は、当時世界の最先端技術でした。ガラス管球をつくり、また管内の空気を排出して真空状態にするなど、製造にあたっては非常に高度な技術が要求されます。白熱舎では、市助以下社員全員でこの研究にあたるものの、なかなか思うような電球を作ることが出来ずにいました。とりわけ試作当初から問題となっていたのは、電流を通して発光させるためのフィラメントでした。輸入した製造機械は、J. W. スワンのスワン会社製のもので、そのフィラメントもまたスワンの方式に従った木綿糸の炭化物を使っていました。しかしこれは非常にもろく、その寿命も短いものでした。
日本初の白熱電灯球
そんな中、市助は、エジソンの白熱電球が、京都産の真竹でフィラメントを精製しているという話を聞きつけます。市助もこの竹を素材に試作を続けますが、さらに素材について研究を続けたところ、京都の竹と同じ苗を使った故郷岩国の錦川一帯に生える千石原の真竹に、さらなる特長を発見します。市助の心には、工部大学校での恩師エアトンの言葉が深く刻まれていました。「人真似で終始せず、そこから更に良いものを作るよう、また発見するよう心掛けること。」そしてこの千石原の真竹を素材に完成させた炭素フィラメントに電流を通すと、管内にまばゆい光がともりました。明治23年(1890)8月12日、日本初の白熱電球の完成でした。
試作開始から9ヶ月を費やして完成した、この日本初の白熱電球は12個、その寿命は当初2時間とわずかなものでした。しかし研究を重ねた末、実用に耐える製品が相次いで完成、流通当時の需要は月300個程度だったものが、3年後の明治26年(1893)には月の生産高が2,500個突破するようになっていきます。そして明治30年代を迎える頃には、その品質を外国製電球と同等のところまで向上させていくのです。
こうして日本は、市助の白熱電球により、電気器具の自給自足への第一歩を踏み出していきました。市助の電球に賭ける執念が、エジソンのアドバイスを見事に具現化させたのです。それは同時に一国の産業発展を支える、もの作りの精神の結晶であり、驚異的なスピードで工業立国へと飛躍していく、日本の大きな一歩でもあったのです。
参考資料: 128, 129, 130, 131, 132, 133
Date: 2007/7/22 10:11:00 | Posted by mikio | Permalink | Comments (4)
このエントリーへのコメント - Comments
Mikio | 2007/8/25 9:41:47
Kenjiさん、ありがとうございます。
サイトはスローペースですが、楽しんで頂けるとうれしいです。
Kenji | 2007/8/25 5:59:24
こりゃすばらしい!この次もどしどしやってください!
Mikio | 2007/7/25 17:59:11
ksさん、ありがとうございます。
今回はちょっと長くなってしまったのですが、
読んで頂けてうれしいです。
エジソンから直接励ましを受けているというのは、
私も調べていてとても興味深かったです :)
ks | 2007/7/23 20:09:32
大変なボリュームの記事でお疲れ様でした。
電球というと「松下」というイメージがあったのですが
「東芝」が日本の元祖だというのは初めて知りました。
また、藤岡市助氏とあのエジソンの間に直接の接点が
あったというのも驚きです。
明治期というのは本当にダイナミックに動いていたのですね。